良くも悪くも私たちは自分の発言に責任を持ちなさいと小さな頃から言われ育てられ、また職場や学校でもそれを求められていると思います。しかし、社会に出てみると、責任を持っているのか、プライドなのか、意地になっているのか、明らかに修正が必要なのに、修正をせずに言い張ろうとしている人が決して少なくありません・・・。
発言についての責任感とは一体、何でしょうか?
一つ前提として、先のことは誰にも分からないということがあります。つまり、先々起こるであろうことに対しての発言(予想)については、実際には誰もが修正を余儀なくされる可能性があるということです。まさに、ここに発言についての責任感を考えるポイントがあります。
例えば、予言や占い師を”仕事”にしている人や、また、投資の神様ウォーレン・バフェットや先見の明に優れた名経営者のスティ-ブ・ジョブズですら、自らが立てた未来のシナリオを外すことがあります。
では、発言についての責任を取るというのは、どういうことなのでしょうか?
それは、自分がした発言(特に先々の予想)について、実際に起こったことが外れた場合は、修正する「責任」があるということです。
例えば、先々に対して強気の予想をしたとしても、その発言のために後に引けなくなってしまい、自分で自分の立場を苦しめたり、周囲に迷惑をかけてしまう前に、修正が必要だと感じたときは、速やかに修正すべきだということです。
自分の過去をごまかしたり、会社の決算をごまかしたり、人間は、発言の修正が必要なときに修正をしないと、どんどん深みにはまっていきます。
そして、どこかのタイミングでそれが露呈したとき、取り返しがつかない事態になってしまうこともあります。長い歴史を重ねたカネボウやオリンパスなどといった日本を代表する企業たちが辿った運命はまさにその代表例と言えるかもしれません。
自らの発言の修正を妨げるのは、意地だったり、自己愛だったり、周囲からの印象だったり、するのかもしれませんが、誰の目から見ても明らかなのに、発言の修正をしないのは、それは発言に対する責任を放棄していると判断されても止むを得ません。
頑なに自らの発言を修正しない人は、残念ながら、人に好感を持ってもらえることはないでしょう。むしろ、相手に嫌悪感すら抱かせてしまうことでしょう。
人を突き動かす原動力には、様々な利害をはじめ欲望が深く絡みあっています。そういった原動力がプラスに働く場合は、素晴らしい結果を生み出したりすることもある一方で、その欲望をコントロールできないと、「修正」が柔軟にできなくなってしまう可能性もあります。
厳しく発言の責任を求められる立場の人は、結果とともに、そういった人間性としての能力も試されているのかもしれません。
とここまで、修正の重要性を説明してきましたが、何でもかんでも修正すればいいというものでもありません。例えば、発言を修正する際に、前言を省みることなく、コロコロと意見が変わってしまうのは、これは一貫性を欠いているということにもなりかねません。
発言の責任というのは、結局のところ、自らの発言について、丹念にPDCA(※)を回していくということなのかもしれません。そして、コミュニケーションにおいては、そのスピードが速ければ早いほど、気転が利くということなのかもしれません。
※Plan(計画)→ Do(実行)→ Check(評価)→ Act(改善)の 4 段階を繰り返すこと