人は誰しも、多かれ少なかれ、他人からの評価が気になる生き物だと思いますが、その中でも、周りからは「性格がいい人そう」「やさしい人っぽい」と評されているにも関わらず、なぜか”好かれない”という人がいたりします。
そもそも、「性格がいい人そう」や「やさしい人っぽい」って、どんな感じの人でしょうか?
○人の悪口は言わない
○言い方がきつくない
○人が嫌がりそうなことをしたりしない
○自己主張が強くない
○真面目
などなど
一見、上のような特徴が見られる人たちは、性格が良さそうだったり、優しそうだったりするのですが、その中でも、なぜか周囲から”好かれない”人がいたりします。
筆者は国内外の幾つかの職場を通じて、色々な方とお会いしてきましたが、そうした一見、性格が良さそうで、優しそうな人の中でも”好かれない”タイプの人には、ある共通項があることを発見しました。
それが、「客観的な評価と主観的な感性」です。
まず、一見、性格が良さそうで、優しそうな人なのに”好かれない”タイプの人は、「客観的な評価」に固執する一方、「主観的な感性」を表に出さないタイプが多いように見受けられます。
「客観的な評価」というのは、例えば、分かりやすい例でいえば、「お金(年収)」「企業名」「大学名」「家柄」「主従関係」「役職」などです。
「主観的な感性」というのは、あくまで自分の頭で考えて、人や物事を前にして「何か」を感じて出す自分の意見です。
つまり、性格が良さそうで、優しそうな人なのに”好かれない”タイプの人たちは、世間で評価されるであろう客観的な評価に対して、異常ともいえる執着を見せつつ、自分の意見があるようでほとんどないというタイプなのです。
社会に出てしまうと分かりますが、よほど閉ざされた環境に身を置き続けている人でなければ、ある人の評価基準というのは、あくまで参考程度にしかなりません。有名大学出身であるとか、有名企業出身であるとか、元代表取締役であるとかといった看板をいくらこれ見よがしに引っ提げても、実際の仕事などで、その業務に適応できないケースは、山ほどありますので、評価基準というのは、あくまで参考程度にしかなりません。
にもかかわらず、性格が良さそうで、優しそうな人なのに”好かれない”タイプの人たちは、そういった客観的な評価基準に対して、なぜか、固執したりします。それが、原因で失敗が過去に起こっていたとしても・・・です。
一番わかりやすい例では、人の採用でしょうか。
筆者が何度も見てきた例では、性格が良さそうで、優しそうな人なのに”好かれない”タイプの人が採用の主導権を握り、社内の人員を増員するといったケースでは、なぜか、ことごとく”外れ”が起きるか、慎重になりすぎて、採用が全然まとまらないといったことが繰り返しありました。
なぜ、性格が良さそうで、優しそうな人なのに”好かれない”タイプの人が採用を行うとそういった事態を招いてしまうかと言いますと、筆者のあくまで個人的で経験則的な見解ですが、よくも悪くも客観的な評価基準に固執し、自分の感性が抜け落ちてしまっているからだと思います。
筆者は、性格が良さそうで、優しそうな人なのに”好かれない”タイプの人に何度も採用のことについて尋ねたことがありますが、
「あの人は前職が○○の企業だから・・・」
「あの人はここはいいが、○○といった聞いたことがない企業で勤務しているところが気になる・・・」
「あの人の○○といったスキルはこの前、ニュースで話題になっていたな・・・」
といった具合です。
つまり、採用の本質から言えば、本来募集を行っている業務に対して、適性があるかどうかということが本質です。書類選考の段階である程度、フィルタをかけるというのであれば、理解できなくもないですが、面接を終え、いざ採用といった際の選考の基準として「企業名」といった基準にこだわりすぎるのを見ると、物事のエッセンスに対して、少しバイアスがかかっているという印象が拭えませんでした。
そして、これは、実は、仕事だけではありませんでした。プライベートでも、一見、性格が良さそうで、優しそうな人なのに”好かれない”タイプの人は中立的な雰囲気があるのですが、何かの決断を迫られたときに、判断基準をどこか一般的なところへ求めてしまったり、あるいは決断そのものができないために、周囲から、個性がない様に見え、”好かれない”といった状況になっている場合がありました。
【まとめ】
実は、筆者が過去、見てきた性格が良さそうで、優しそうな人なのに”好かれない”タイプの人の中には、本人がそれに気づいているという人も決して少なくありませんでした。そして、そうした人たちの多くは、自己評価が低く、コンプレックスを抱えていたりしました。つまり、本人は出来る限り、客観的な視点を心がけて、中立的な見方をするように心がけているものの、周囲からは決して好意的には思われていないと感じているのです。
あまり、自己主張をしすぎるというのは、おススメできないものの、杓子定規に世間一般の評価基準ばかりに固執して、個性がなさすぎるということは、他の人からすれば、”評価ができない人”=”好きでも嫌いでもない人”になってしまっているのではないかなと思います。