あまり一般的ではありませんが、筆者がこれまでに出会った人の中で、ちょっと変わった「お金に好かれる人」を紹介するこの企画ですが、今回のテーマは、お金に好かれるためにも心がけたい「資格取得・語学・学歴に依存しない」ことです。
例えば、弁護士や公認会計士といった方々は高収入といったイメージがあるでしょうか?私は少なくとも、社会に出る前の学生時代までは、ずっとそう思っていました…。
ところが、弁護士や公認会計士、多言語通訳者、歯医者、高学歴者といった一般的には高収入が連想されやすい職業の方々も、実際にはそうでもないようなんです・・・。
例えば、弁護士ですが、国家をあげてのロースクール構想、司法試験合格者の増加などにより、弁護士間での競争が激化、難関試験を突破したものの、収入という面では一昔前のような期待ができる職業ではなくなってしまっています…。
公認会計士も同様で、供給過剰と需要の減少という状況に直面し、現在は特権的で高収入が期待できる職業というわけではなくなってしまいました。
他にも、7ヵ国語を巧みに操る多言語通訳者や歯医者、高学歴者も、”看板”だけでは、高収入が期待できないようです・・・。
筆者の友人である多言語通訳者に、ある時、お金の悩みを打ち明けられまして、
「東京でこの手取りではやっていけない…この先、どうしたらいいと思いますか…」
と筆者に自分の給与明細を見せながら、切々と訴えられたことがありました。
筆者もさすがに「その給料はいくら独身とはいえ、能力に対して安すぎる」と答え、「転職を考えては?」ということをアドバイスした経験があります。
また、筆者の古くからの友人である歯医者、高学歴者の中にも、お金に汲々としている人も決して少なくありません。
ここで誤解して欲しくないのは、弁護士や公認会計士、多言語通訳者、歯医者、高学歴者といった人たちの中には、すばらしい実績を誇り、収入も非常に高い人もいますし、それだけの難関の資格や学校に入学して卒業する人ですから、能力が高い人がほとんどです。
ただ、筆者がここで説明したいのは、「看板」だけで高収入は期待できないということです。
また、「看板」に依存してしまうと、成長の芽を自分自身で摘みかねないというリスクがあり、これこそが筆者は最大の懸念材料だと思っています。
例えば、日米の上場企業のうち、そのほとんどのCEOの出身大学は東大や京大、ハーバードやスタンフォードといった大学ではありません。
その理由ですが、筆者は京セラ、KDDIを創業し、JALを再建した稀代の名経営者と呼ばれる稲盛和夫さんの哲学を支持しています。
人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力
いわゆる頭の良さというのは、一種の「能力」にあたると思うのですが(努力もあると思います)、ここだけが優れていても、結果が報われるとは限りません、また稲盛さんは、能力のある人が一所懸命に取り組んでも、「考え方」が間違っていると、結果に結びつかないと説かれています。
興味のある方は稲盛さんの著書を是非読んで頂ければと思いますが、筆者は資格や語学、学歴といった「能力」に依存してしまうと、それが目に見えたものであるが故に、熱意や考え方に影響を与えると思っています。
つまり、資格や学歴などは、それが形となり、公に見えてしまうが故に、かえって、当の本人がそれに縛られてしまう可能性(リスク)があると感じています。
例えば、筆者が見てきた例では、
MBAホルダーでプライドが高い人で「こんな仕事は私のする仕事ではない」という気持ちがありありと見て取れたり、弁護士の資格を持ってプイラドを持ちすぎているために、「他の職業の人を下に常に見てる」などなど、それこそキリがありません。
筆者は、個人的にはお金に好かれやすい成功者は、実際のところ、「熱意」や「能力」に依存しない人だとこれまでの経験から感じています。
「熱意」や「能力」といった要素は稲盛さんも言及されていますが、0~+100であるものの、「考え方」は場合によっては、-100~+100で動くからです。
しかし、この「考え方」というのは、能力のように目に見えるわけではなく、「熱意」のようには、普通の人が容易に備えることができません。
もちろん、熱意を持続するのも簡単なことではありませんが、「考え方」は、自身の経験、自分が身を置いている環境、時代などに応じて柔軟に変化させて、そして調和させ、さらに本質的であることを求められるからに他なりません。
逆に言えば、熱意や能力が凡人でも、考え方が優れていれば、筆者は、十分にお金に好かれる人になれると確信しています。
【まとめ】
筆者は目に見える資格や語学、学歴を否定するつもりはありません、むしろ、それらが難関であればあるほど、賞賛されるべきあると考えています。どんな努力であれ、無駄になることなどないと思います。
ただし、注意しなければいけないのは、それらの看板に縛られすぎてしまうと、お金に好かれたりしない可能性があるということです。
筆者は決して拝金主義ではありませんが、お金に好かれる人はそれだけ、社会から評価されているということでもある結果だと思います。